ポリネシアへの最初の滞在の後、1893年9月1日にゴーガンはパリに戻り、「野蛮な」絵画の正当性が示せることを願って、タヒチに関する作品群を発表することに決めました。ゴーガンの努力は、完全には成功に至りませんでした。
11月、ゴーガンはリュクサンブール美術館に絵画を差し出しましたが、拒絶されました。加えて、ゴーガンによる最も素晴らしいタヒチの傑作絵画群を展示した展覧会も、望んでいたほどは成功しませんでした。ドガやジャリ、ナタンソンといった数少ない画家や批評家たちはゴーガンを支持しましたが、大半の芸術家は非常に曖昧な態度を取っていました。この自画像は、こういった挫折への返答のようであり、反骨心を肯定する思いを改めて抱いたようです。鏡に写った姿で描かれた自分自身の後ろにゴーガンが配置したのは、かの有名な《マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)》で、太平洋滞在中に制作した中で最も重要かつ意義のある作品だと彼は考えていました。ゴーガンは、黄色とオリーブ色で塗った新しいアトリエの、「タヒチ化された」室内装飾の中に自分自身を描いています。右側にある青と黄色のサロンは、この部屋が異国情緒ある骨董品でいっぱいであることを思い起こさせます。ゴーガンが伝えているイメージは、「原始的な」特徴を持った野生の芸術家というもので、その屈強さは簡素な筆致とカンヴァスの粗い質感によって強調されています。ゴーガンはこの絵画の後ろの方に、若き友人ウィリアム・モラール(1862-1936)の顔を少し歪ませて描いています。ワーグナーを愛した音楽家モラールは、当時モンパルナスにいた西洋のボヘミアン・アーティストとのつながりを持っており、その中でもストリンドベリやドゥリオは、後にゴーガンの作品が大衆の注目を浴びるように手助けをすることとなります。この絵画におけるこうした二つの面は、画家がパリにいた1893年から1894年にかけての冬をうまく要約しています。この短い期間には、世紀の変わり目におけるヨーロッパ全体の前衛芸術に、プリミティヴィズムを導入する基礎が築き上げられたのです。